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「またくだらないことばっかりして!」は最高の褒め言葉だと思ってます。
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まるで氷河期、この唇に
夜空は何も混じり気のない様子でひんやりと静かに息づく。
空は墨汁を染み込ませたような不気味な暗さでこの世界を支配していた。
夜半から雪が降るかもしれないという予報は外れたようで、しなやかに揺れる高層ビルの隙間から顔を出した真っ白な月は、黒曜色の空を波打つようにたなびいている。
星の見えない空に吹く風はとても厳しく、季節外れの天の川をも全て吹き飛ばしてしまった。
凍てつく北の空にだけ、丸みを帯びた月が我がもの顔で飄々と輝いていた。
一方、繁華街の表通りでは八方美人なネオンサインの瞬きと共に人々の欲望が枯れる。
そこには全ての欲望が叶うかのような幻想と誘惑と歓喜の声がとぐろを巻いて人々を縛っていた。
その欲望通りから横道に逸れた静かな路地裏に一歩足を踏み入れると、誰かが捨てたやさしさが野良になって足元に懐く。
それは何かの理由になるわけでもなく、誰かの答えになる事もなく、ただ純粋にその命とも言えぬわびさびを燃やし続けているだけのようだった。
路上には路上の掟がある。
触れてはいけない、手を出してはいけないと思いつつも、その野良を拾い上げる。
群青色の手袋からかじかむ手を出し触れたその刹那、張り詰めていた裏通りの静寂は、ぼんやりとした言いようのない不安に一瞬にして切り裂かれたのだった。
量りきれない衝動がこの街を駆け抜けて行く。
それは心の奥に仕舞いこんでいた何年間も開けていない宝石箱から解き放たれた、いくつもの無垢な思い出たちが全てこぼれ落ちて行ってしまうかのようだった。
路地裏に差し込む桃色や紫色したネオンサインの逆光によって打ち破られた淡く切ない思い出たち。
それは水面にこぼれ落ちた雫の環が永遠に広がり続けるように路地裏から表通りに向かって広がり続けていく。
だが、その事に表通りの人々は誰も気付かない。
地下鉄のホームに迷いこんだ鼠だけはいち早くそれを察知して、足早にこの街を離れていく。
いや、皆、気付いていたのかもしれない。
その衝動が闇夜を駆け抜けても、夜の絶対的支配者さえもこの街の掟を破ることは出来ないということに。
そして、街外れから吹く冷たい郷愁の風が人々のマフラーを揺らした数だけ、その反動でこの街は萎びて行くということにも。
街角のブルースバーから微かに聴こえるハウリン・ウルフのブルースがこの街の唯一の救いだった。
あれだけ堂々と輝いていた月が満月から三日月、そして角のある円を描く時間帯になると、街はまるで氷河期のように色のない世界に変わっていく。
夜の街が片付けられる頃、夜の支配者は影も音も足跡さえないまま架空の始発列車に乗り込む。
乾いた唇にそっと人差し指を当てて、いくつもの時代を振り返り遡りながら、次の街へ夜の闇を運びに行くのだった。
by earll73 | 2008-03-04 00:03 | アレ散文
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